政治哲学史講義 ホッブズ講義Ⅱ 「人間性と自然状態」
第1節「 はじめに」
第2節 「人間性の主要な特徴」
第3節 「ホッブズの命題のための議論」」
補遺A 「自然状態→戦争状態というホッブズの主張のアウトライン(ハンドアウト)」
第1節「 はじめに」
1-1
ホッブズは、自然状態はきわめて容易に戦争状態に移行する傾向があるという、彼の見解にとっては非常に重要な一般命題をもっていました。
彼はしばしば、自然状態〔人々に畏敬の念をいだかせ、彼らの情念を抑制させるための実効的な主権者が存在しない状態〕 について、本質的に戦争状態であるかのように語っています。
ここで、ホッブズにとって戦争状態は、「戦闘ないし戦いの行為にのみあるのではなく …… その逆の保証が存在しない間じゅうの、それへの周知の傾向にも」(『リヴァイアサン』第13章)、存在していることに注目することが重要です。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 pp.210-
《諸政治国家の外には、各人の各人に対する戦争が常に存在する》
これによってあきらかなのは、人びとが、彼ら全てを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、彼らは戦争と呼ばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。
すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、戦闘によって争うという意志が十分に知られている一連の時間にある。
戦争の本性においては、天候の本性においてと同じく、時間の概念が考慮されるべきである。というのは不良な天候の本性が、ひと降りかふた降りの雨にあるのではなく、多くの日を一緒にしたそれへの傾向にあるのと同様に、戦争の本性も、実際の闘争にあるのではなく、その反対に向かう、なんの保障もないときの、全体における闘争へのあきらかな志向にあるのだからである。
そのほかの全ての時は、平和である。
私が「ホッブズの命題」と呼ぼうとするのは、自然状態は本質的に、また事実上、戦争状態であるという命題です。
〔自然状態は本質的に、また事実上、戦争状態である〕
なぜホッブズはそのように考えるのでしょうか。
1-2
「自然が、人々を分裂させ、互いを侵略し、破壊しがちなようにする」というのは、奇妙に思えるかもしれないと〔すなわち、自然状態がかくも容易に戦争状態になるというのは、奇妙に思えるかもしれないと〕、ホッブズは述べています。(『リヴァイアサン』第13章)。
しかし彼は、なぜそうであるかを、彼が「情念からなされる推論」と呼ぶものによって理解できると言います。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 pp.211-
《そのような戦争の諸不便》
〈略〉
これらのものごとをよく考量したことのない人には、自然が人びとを、このように分裂させ、相互に侵入し滅ぼしあわせるということは、不思議に思われるかもしれない。したがって彼らは、情念からなされたこの推論を信じない。おそらく、そのことが経験によって確かめられることを欲するであろう。
この情念からの推論をなすことは、日常の実際の経験を見ることによって、つまり、主権者が実際に存在し、法と武装した公務員が存在するいま、政治社会でわたしたちが実際になしている行動の仕方に注目することによって、確認できます。わたしたちは、旅行するときに武装し、寝床に入るときドアに鍵をかけ、自分の家のなかでさえ鍵を閉めたりすると、彼は言います。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 pp.211-
《そのような戦争の諸不便》
〈上記に続き〉
それでは、彼に、彼自身について次のことを考察させよう。
すなわち、彼が旅にでるときに、自分は武装し、かつ十分な同伴者とともにいくことを求めるということ、彼が眠るときに、扉に鍵をかけるということ、彼の家にいるときでさえ、彼は自分の金庫に鍵をかけるということ、しかもこれは、彼に対してなされるであろう、すべての侵略に復讐するための、法があり、公共の役人があるのを、彼が知っている場合のことだということ、
〈略〉
これらの行動によってお互いを告発し、わたしたちはいわば、この情念からの推論を受け入れていることを示しているのです。それは次のことを表しています。もし自然状態が存続するなら、そのときには事実上、戦争状態もまた存続する、と。
1-3
(私見: この段落は長い)
このように、ホッブズが言っていることは、もしわたしたちが人間性を現にあるようなものとして理解するなら、自然状態は戦争状態になるとわたしたちは推論することができるということなのだ、と私は思います。
いま政治社会で観察しているような、人々の本質的な特徴や能力、また欲求や他のさまざまな情念によって、人間性とは何なのかは証明される、と、ホッブズは言います。それをまた、彼の政治的教義の目的のために、これらの人間性の本質的な特徴は多かれ少なかれ所与のものであり、定まったものである、というように想定しています。
社会制度や教育や文化がわたしたちの情念を重要な部分で変えたり、少なくとも、ある重要な種類の事例において、わたしたちの目的をかえることをホッブズは否定していません。しかし、彼の政治的教義のため、すなわち、私が彼の世俗的道徳体系と呼ぶもののために、人間性の重要な点や本質的な特徴は多かれ少なかれ定まっていて所与のものであると彼は想定します。
社会制度や、とりわけ実効的な主権者の存在は、わたしたちの客観的な環境を変え、それゆえ、わたしたちがなすのが賢明なことや合理的なことを変えます。
たとえば主権者を仮定するならば、わたしたちは、いま保護されており、わたしたちの信約を遵守しない理由をもっていません。つまり、主権者が実際に存在すると想定すると、わたしたちは、わたしたちの信約を遵守したり、わたしたちの約束をまもったりする、以前にはもっていなかった理由をもっているのです。
しかしながら、社会制度は、わたしたちの本性の、もっと本質的な側面を変えるものであるようには考えられていません。それらの制度は、わたしたちの最も根本的な、自己保存と夫婦愛と快適な生活の手段への関心を変えません。
したがって、それらの要素を多かれ少なかれ定まったものとすると、ホッブズがそのとき行なうことは、人々が現にあるようなものとすると、あるいはそうであると彼が考えるようなものであるとすると、いったい自然状態はどのようなものであるか、を推論することです。
そして彼は、自然状態を「絶えざる恐怖と、不慮の死の危険」の状態であり、「人間の生活は孤独で、貧しく、ぞっとするほど不快で、獣のように粗野で、短い」(『リヴァイアサン』第13章)が、そうした条件のもとでは、なおおそらく長すぎると表現しています。〔現実の〕人間のいかなる特徴から、この情念からの推論はなされるのでしょうか。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 p.211
《そのような戦争の諸不便》
〔したがって、〕各人が各人の敵である戦争の時代の帰結として生じることが、どんなことであっても、それと同一のことが、人びとが自分自身の強さと自分自身の工夫とが与えるもののほかにはなんの保証もなしに生きている時代の、帰結としても生じる。
そのよう状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航海も海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具および多くの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく社会もなく、そして最も悪いことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は、孤独で貧しく、辛く残忍で短い。
第2節 「人間性の主要な特徴」
(私見: この節は長い。17段落もある)
2-1
私はこれから、彼〔ホッブズ〕が指摘した人間性の四つの特徴に言及し、コメントを加え、次いですぐに、私が前に「ホッブズの命題」と呼んだものの基本的な議論を詳しく検討します。
2-2
〔第一の特徴〕
第一の特徴は、身体の強さと精神の機敏さという、自然的資質における平等の事実です。
もちろん、ホッブズはこれらの自然的資質を文字通りに、あるいは厳密に、平等であるとはみなしていません。しかし、彼の主張の要点は、それらが十分に平等であるということにあります。
たとえば、身体的強さにおいて最も弱い者でさえ、密かなたくらみによって、あるいは同じように最強者によって脅かされている他の人たちと一緒に企むことによって、その最強者を殺すことができるくらいに十分に強いのです。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 p.207
《人びとは生まれながら平等である》
自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかに強いとか、精神の動きが速いということが、ときどき見られるにしても、すべてをいっしょに考えれば、人と人との違いは、ある人がその違いにもとづいて、他人が彼と同様には主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。
すなわち、肉体の強さについていえば、もっとも弱い者でも、ひそかなたくらみにっひょり、あるいは彼自身と同じ危険にさらされている他の人びととの共謀によって、もっとも強い者を殺すだけの、強さをもつのである。
いまここでは、「十分に平等」が厳密な平等ではなく、この情念からの推論を支持するのに十分に平等であり、そこで人々は自分たちが脅かされていると感じており、互いを攻撃するよう導かれていることに注目してください。
〔厳密な意味においての平等ではなく、情念からの推論を支持するのに十分に平等であるということ〕
また、人々は精神の機敏さにおいての方が、多くの点で、身体の強さにおいてより、いっそう平等に恵まれているとホッブズが考えていることに注目してください。ここで問題となっている特質は、機知と賢慮で、ホッブズは、これらは経験から得られると考えています。そしてここでは、すべての個人は経験し、学ぶ平等な機会をもっていると考えています。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 p.207
《人びとは生まれながら平等である》
〈上記に続き〉
そして、精神の諸能力についていえば、〔語にもとづく諸学芸、とくに科学と呼ばれる普遍無謬の諸法則にもとづいて、ことを処理する技倆をのぞいてのことであり、その技倆は、われわれとともに生まれる生得の能力でもなく(慎慮のように)なにか他のものを、われわれが追求しているあいだに取得されるものでもないから、きわめてわずかな人が、わずなかものごとについて、有するにすぎない〕、私はむしろ、強さについてよりもさらに大きな平等性が、人びとのあいだにあるのを、見出すのである。
というのは、慎慮は経験にほかならず、それは、ひとしい時間がすべての人に、ひとしく専念する物事について、ひとしく与えるものだからである。
〈略〉
2-3
加えて、ホッブズは、すべての人が等しい精神の機敏さをもっているとは考えていません。しかし、ホッブズの見方では、その違いが生じるのは習慣と教育と体質における違いからで、それが今度は情念における違い、つまり、富や栄光や名誉、知識といったものへの欲求における違いを引き起こします。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第11章「さまざまな態度について」 pp.168-
《ここで態度というのは何を意味するか》
態度 Manners によって、私がここで意味するのは、〈略〉人類が一緒に平和と統一のなかに生活することに関する、彼らの性質である。この目的のために、われわれは、この世の至福が、満足した精神の平安にあるのではないことを、考慮すべきである。なぜなら、〈略〉至福は、ある対象から他の対象への、意欲の継続的な進行であって、前者〔ある対象〕の獲得はまだ、後者〔他の対象〕への径路にすぎないのである。
そのことの原因は、人間の意欲の対象が、一度だけの、そして一瞬の享受ではなくて、彼の未来の意欲の道を永遠に確保することだ、ということである。
そして、したがって、すべての人の意志による行為と意向は、満足した生活を獲得するだけでなく、さらにそれを確保することにも向けられるのであって、違うのはただ径路においてである。その違いは、一部は、さまざまな人びとにあっては情念が様々であることから、また一部は、意欲された効果を生む諸原因について、各人がもっている知識または意見が様々であることから、生じている。
機知における違いを引き起こすこれらすべての欲求を、ホッブズはその政治的教義において、ただ一つのもの、すなわち「次から次へという権力」への欲求に還元する傾向があります。この場合の権力はそこでは、わたしたちの善、ないし、わたしたちの欲求の対象を獲得する手段を表します。(『リヴァイアサン』第11章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第11章「さまざまな態度について」 p.169-
《すべての人において、休むことのない、力への意欲》
そこで私は、全人類の一般的性向として、次から次へと力を求め、死においてのみ消滅する、永久の、休むことのない意欲をあげる。
そして、このことの原因は、必ずしも常に、人が、すでに取得したよりも強度のよろこびを希望するとか、ほどよい力に満足できないとかということではなくて、彼が現在もっている、よく生きるための力と手段を確保しうるためには、それ以上を獲得しなけらばならないからなのである。
〈略〉
多くの異なる種類のもの、わたしたちが自分を幸福にしてくれると考えるものは、それらが、わたしたちに、自分にとっての善を獲得するのを可能にする、という意味において、ホッブズにとっては権力の諸形態です。権力への人々の欲求の異なる強さこそが、彼らの精神の機敏さの違いを決定する、と、ホッブズは考えます。これらの違いは十分に平等であるので、彼らの精神の機敏さも平等なのです。
ここで再び、十分に平等である、とは、自然状態を戦争状態にするのに十分に平等である、ということを意味します。
2-4
もって生まれた能力の平等に関わる最後の観察は、もし実際に実質的な自然的不平等があるなら、一人の人、あるいは少数の人が残りの人々を支配することができ、その人はまさに支配するであろう、と、ホッブズが想定していることです。彼らは自然権によって支配するであろう、と、彼は言っています。
あるいは、もしこれが現実的でないように思えるなら、統一を保ち一つの精神をもつことができたとき人々の支配的な集団は、また支配することができるうでしょう。
神がわたしたちを支配する権利、について議論するとき、ホッブズは同じように言います。神はこの権利を、創造の権利のおかげで持つのではありません。
私がのちに論じるロックは、それを道徳原理と想定します。つまり、ロックが信じるように、もし神がわたしたちを創造したのであるなら、わたしたちは服従の道徳的義務をもつことになります。この義務は、もし A が B を創造するなら、 B は A に対する義務を持つという原理に依拠しています。 ホッブズにおいて、わたしたちはそのような創造の権利を見出だせません。わたしたちは、神による創造や、わたしたちの感謝にもとづく神への義務を見出すのではなく、もっぱらその抵抗しがたい力にもとづく神への義務を見出すのです。ホッブズは言っています。
「だれであれ抵抗しがたい力をもつ者がいるなら、彼がその力による …… 自由裁量に従って、支配しないわけがあろうか。それゆえ、その力が抵抗しがたい人々に、彼らの力の卓越によって自然に、すべての人に対する支配権 dominion が帰属する。しがたって、またその力こそ、人々を支配する王国は …… 全能の神に属する。それは、創造主であり慈悲深き神としての、ではなく、全能である神としての神に属するのである」(『リヴァイアサン』第31章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第2巻 第2部 「コモンウェルスについて」第31章「自然による王国について」
pp.287-
《神の主権の権利は、彼の全能性から引き出される》
神がそれによって人びとを治め、彼の諸法を破棄する人びとを処罰するところの、自然の権利は、彼が彼らを創造したということから、彼の恩恵への報恩によるものとして、彼が従順を要求するかのようにして、引き出されるべきではなく、彼の抵抗しえない力から引き出されるべきである。
〈略〉
2-5
さて、ホッブズが次に示さなければならないのは、自然状態において、とりわけ平等の状態を仮定したとき、その傾向は戦争状態に帰着するということ、また、それが起こるのを避けるために、実効的な共通の権力、すなわち主権をもつ、かの偉大なリヴァイアサンが必要であるということです。
2-6
〔第二の特徴〕
人間性の第二の特徴ないし要素は、資源の希少性と競争をもたらす、わたしたちの必要性 needs の本質です。
それを次のように言うことができるでしょう。人々の必要性と欲求の本質を仮定すると、また変化し拡大する〔必ずしも限界なく拡大するのではないとしても〕必要性と欲求の本質を仮定すると、これらの必要性と欲求が、自然において手に入るよりももっと多くを充足のために必要とする、という、永遠の傾向が存在する、と。これが自然の希少性を生みだします。
もちろん、この希少性とは、必要性と欲求の総計ないし集合が、利用可能な資源の総計よりも大きいという関係のことです。この希少性は人々の間の競争に帰着するとホッブズは信じています。もし、他の人たちが彼らの望むすべてをとってしまうまで待っていたなら、わたしたちには何ものこらないでしょう。
そこで自然状態では、わたしたちは自分の権利を主張し、自分の権利を防衛する用意がなければならないのです。
2-7
ホッブズの見方にもとづくと、政治社会はこの希少性の関係を除去しません。希少性は人間生活の永遠の特徴であると彼は信じているか、あるいは少なくとも仮定しています。
希少性は相対的なものでえ、より切迫したものか、それほど切迫していないものかのいずれかで、政治社会において満たされないままになっている欲求と必要性は、自然状態において満たされないままになっているそれら〔欲求と必要性〕に比べれば、それほど切迫したものではありません。
したがって、実効的な主権者が存在する市民状態がより好ましいのです。
〔自然状態 ←→ 市民状態 ≒ 政治社会〕
2-8
ホッブズは〔『リヴァイアサン』〕第13章の終わりで、「人々を平和へと向かわせる情念は、死の恐怖であり、便利な生活に必要なさまざまなものへの欲求であり、そして自分たちの勤勉さによってそれらを獲得しようとする希望である」と言っています。
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第13章「人間の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」 p.214
《人びとを平和に向かわせる諸情念》
人びとを平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとに対する意欲であり、それらを彼らの勤労によって獲得する希望である。
そして理性は、都合の良い平和の諸条項を示唆し、人びとはそれによって、協定へと導かれうる。これらの条項は、別に、自然の諸法〔自然法〕とも呼ばれるものであって、〈略〉
実効的な主権者の存在が、暴力による死への恐怖を取り除き、勤勉さが報われ保障されるような状態の確立を通じて、便利な生活のための手段を主権者の存在は奨励します。
このことについてホッブズは、『リヴァイアサン』第30章の初めで、そのために主権者の職務に対して主権的権力が委ねられる目的ないし狙いは、
「人民の安全であり、彼〔主権者〕は自然法によってそれに対して義務づけられ、そのことについて説明するよう自然法の造り主である神に対して、他の誰でもない神に対してのみ、義務づけられる。しかし、ここで安全によって、かろうじて保存を図ることできるということが意味されているのではなく、各人がコモンウェルスに対して危険を与えることなく、あるいは損害を与えることなく、適法な勤勉さによって、自分自身のために獲得するであろう、他のすべての生活の満足もまた意味されている」(『リヴァイアサン』第30章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第2巻 第2部 「コモンウェルスについて」第30章「主権的代表の職務について」
p.259
《人民の利益の取得》
主権者の職務 office は、〔それが君主であれ合議体であれ〕、彼がそのために、
2-9
したがって、政治社会が行なう一つのこと、またそれを集合的に合理的なものにする一つのことは、それが労働の成果ないし便利な生活の手段を生みだすのをはるかに容易にする状態を導くことです。このことは、自然敵資源の希少性を実際に変え、それをあまり切迫していないものにします。
希少性は実際にはなお存在します。主権者は、希少性を除去するのではなく、ホッブズの見方にもとづきますと、適法な勤勉さや、財産を所有しそれを安全なものにするようなための、公平な状態を生みだすことをこそ行なうのです。
2-10
(私見: この段落は長い)
〔第三の特徴〕
情念からの推論を裏付ける人間性の第三の特徴は、ホッブズの見方では、人間の心理学的性質は、おおむね、あるいは大体は、自己中心的であるということです。
とくに、人々が基本的な政治的・社会的事柄について熟慮するとき、彼らは自分たち自身の保存ないし安全や、自分たちの家族のそれに対して、すなわちもう一度彼の言葉を用いますと、「便利な生活の手段」に対して、自分たちの思考や行動における優先権を与える傾向があるのです。
2-11
これは
彼〔ホッブズ〕は、政治社会を一つに結びつけておくものについて話し、平和と協和のためになぜ実効的な主権者が必要であるかを説明したいと考えます。つまり主要には、政治に、政治的問いに、政府の基本的な制度的構造に、彼は関心があるのです。
2-12
もちろん、
彼の要点は、政治社会の説明において、また社会統合の基礎において、こうした人間の諸能力に依存すべきではないということです。すなわち、もしそれが可能であるのなら、政治社会の統合を基礎づけるために依存すべき他のいくつかの根本的な関心があるのです。
2-13
こうして私は、ホッブズの概して自己中心的な、あるいは自分本位の人間性についての説明は、実際に、政治的構想の目的のための強調として役立っていると仮定しています。それは、彼の権力への欲求の力説とよく合った強調なのです。
2-14
2-15
2-16
2-17
(私見: この段落は長い)
第3節 「ホッブズの命題のための議論」」
3-1
ここで、これまで述べてきたことをすべてまとめてもっと簡潔な形で、自然状態は戦争状態をもたらす、という、また実際に、それは戦争状態である、という、ホッブズが自らの命題を支持する議論を示します。
しかしながら、人々を恐れさせ人々の情念を規律する実効的な主権者は存在しないこと、また戦争状態とは戦闘によって戦う意志が公然と認められている状態であること、を、最初に思い出してください。
そのうえで、私が前の方でホッブズを引用したように、戦争状態は「戦闘ないし戦いの行為にあるのではなく …… その逆の保証が存在しない間じゅうの、それへの周知の傾向にも」存し、「他のすべての時間は平和である」(『リヴァイアサン』第13章)のです。
「公然と認められている」とは、これは戦争状態であることを誰もが知っており、その他の誰もが知っているということをまた、誰もが知っていることを意味するものと私は理解します。それは常識なのです
3-2
ホッブズの命題を支持する議論は、次のようにまとめられるでしょう。
(a)
(b)
(c)
(d)
3-3
さて、このようなホッブズの議論の概略について論評してゆきたいと思います。
i.
ii.
(d) の段階において、
iii.
iv.
v.
vi.
vii.
3-4
最後に余談として言っておきたいのは、
補遺A 「自然状態→戦争状態というホッブズの主張のアウトライン(ハンドアウト)」